清水次郎長(本名:山本長五郎)とは
わたしたち清水っ子にとっては、清水の次郎長親分と言えば大変なヒーローであると同時に乱暴者で、身近だけれどなんだかちょっと怖いイメージもある、非常に魅力的な人物です。
TVや映画、演劇で描かれる次郎長さんとその仲間の印象が強いこともあって、本当はどんな人だったんだろう?というのはすごく気になる部分でもあります。
そんな訳で、次郎長さんの一生を振り返ってみました。
【幼少期】
清水次郎長は文政3年(1820年)1月1日に、現在の静岡市清水区の船持ち船頭の高木三右衛門の次男として誕生しました。
母方の叔父である米穀商の甲田屋の主、山本次郎八に実子がいなかったこともあり、次郎八の養子になります。
この次郎八のところにいる幼少時代に周囲が、次郎八のところの長五郎、「次郎長」と呼称されるようになりました。
【少年期】
文政12年(1829年)、8歳の時、その粗暴な性格に手を付けられず由比倉沢の伯父、兵吉のもとに預けられてしまいます。
天保5年(1834年)、15歳の時に次郎八の養家へと戻ります。しかし、そこで百両を持って逃げてしまいます。
この頃から賭博の才能があったのか、持ち逃げした百両を元手に米相場で巨利を博し、清水に戻って家人を驚かせます。
また、天保6年(1835年)に養父の次郎八が死去し、次郎長は妻帯して家業に従事します。
ただ、一方では喧嘩と博打を繰り返す日々も送り、相変わらずの暴れん坊でした。
【青年期】(任侠の道へ)
幼少期より暴れ者でしたが、任侠の道へと進んだのには実は理由がありました。
天保10年(1839年)、20歳の時、旅の僧に「残り5年の命、25歳が寿命だ。」と言われてしまいます。
この時に、「どうせ死ぬなら短く太く生きてやろう」と、任侠の道を志します。
天保13年(1842年)、江尻で芝居を見た帰りに、酔っ払っていた次郎長は闇討ちに合い、生死をさまようほどの重症を負います。
この闇討ちを機に、生涯禁酒を誓います。
天保14年(1843年)、博打の際にインチキを発見した次郎長は、喧嘩の果てに人を斬って巴川に相手を投げ込んでしまいます。
この事件をきっかけに、妻と離別して姉夫婦に家業の甲田屋を譲ると、江尻大熊たち子分とともに無宿人となり、清水の地を出ます。
そして、三河の地で、吉良の武一から剣術を本格的に学びます。
諸国を旅して修行し、交際を広げた次郎長は清水に戻り、清水湊に一家を構えます。
弘化2年(1845年)、伯父である和田島の太右衛門と甲斐国鴨狩津向村(現:山梨県西八代郡市川三郷町)の津向文吉の間で、駿河の庵原川にて出入りが発生しました。
ただ、この出入りは三馬政の計略であると言われ、次郎長はこれを仲裁・調停して治めます。
この仲裁により、次郎長はその挟名を高めて挟名人の仲間入りをし、津向文吉はこれを縁に次郎長との関係を深めます。
弘化4年(1847年)に、28歳で江尻大熊の妹・お蝶(初代)を娶り、清水仲町の妙慶寺の近くに世帯を持ちます。
安政5年(1858年)12月、39歳の時、甲州の祐天と江尻大熊の間に争いが起こります。
次郎長と江尻大熊は、祐天の親分である甲府の隠居を斬ります。
このことで役人に追われることとなった次郎長は、お蝶と子分と共に瀬戸の岡一の家に身を隠します。
ただ、ここでお蝶が病に倒れ、名古屋の長兵衛の家に移ったあと、帰らぬ人となります。
安政6年(1859年)、かつて親身になって世話をした久六が裏切り、捕吏に次郎長たちが長兵衛の家に身を寄せていることを密告します。
この久六の密告により、捕吏が長兵衛の家に踏み込み、次郎長は逃げ切るものの長兵衛は囚われ、その後牢死してしまいます。
次郎長はすぐに子分の大政・森の石松を引き連れて金毘羅参拝をし、尾張知多亀崎乙川において久六を斬って長兵衛の怨を晴らします。
万延元年(1860年)、久六へのお礼参りに、森の石松を金毘羅神社へ代参に向かわせます。
金毘羅参拝後、見請山の鎌太郎の元を訪れた石松は、鎌太郎から、お蝶の葬儀の際に次郎長に届けることができなかった香典を託されました。
その帰路に、石松は懐にいれた香典を狙った都田(現在の浜松市北区都田)の吉兵衛・梅吉兄弟にだまし討ちに遭い、斬殺されてしまいます。
文久元年(1861年)、梅蔭禅寺住職の振る舞ったふぐにあたって、角太郎・喜三郎が死亡します。
石松の敵討を考えていた次郎長は、この事件を利用して、清水一家全員がふぐにあたったと噂を広めます。
清水に勢力を広げようとしていた都田吉兵衛は、この噂を耳にして、ここぞとばかりに子分9人を引き連れて清水に押し寄せます。
まんまと次郎長の策に引っかかったのです。
吉兵衛が清水に来ることを予想していた次郎長は、吉兵衛の清水入りの情報に常にアンテナをたて、いち早くその情報をキャッチします。
そして、大政・小政・撲常・清吉たちと共に酒亭駕篭屋で都田一家に奇襲をかけ、石松の仇を討ちます。
また、この年の10月には東海道菊川宿における、下田金平との手打ちに黒駒の勝蔵が出席し、対面します。
文久2年(1862年)、この頃、甲州黒駒の勝蔵が勢力を伸ばしてきます。
勝蔵の親分であった竹居安五郎が獄死したあと、勝蔵は安五郎の手下を黒駒一家としてまとめ、上黒駒村戸倉を拠点に甲州博徒の大親分としての有名を関東に轟かせていました。
そして、その勢いは清水近くまで及んできていました。
清水港は富士川舟運を通じて信濃・甲斐方面の年貢米を江戸へ輸送する廻米を行っていて、いわば特権がありました。
その富士川舟運の権益を巡り、勝蔵ら甲州博徒は清水次郎長の勢力圏である、興津宿や駿河岩淵河岸を襲撃します。
この時、清水一家28人衆の興津の盛之助も襲撃され、悪事の限りを尽くした勝蔵は捕吏に追われるようになり、遠州に逃れます。
中泉番所は遠州に逃れた勝蔵を捕えるべく、大和田の友蔵に依頼をし、次郎長も加わって勝蔵を甲州に追いやります。
元治元年(1864年)、45歳の時、勝沼の三蔵が清水襲撃のための資金集めを強要されたことから、次郎長に救援を求めてきます。
慶応二年(1866年)、47歳。有名な伊勢・荒神山の喧嘩(血闘)がこの年に行われます。
この荒神山の付近は亀山・神戸の藩領と天領が複雑に入り混じり、他領に出れば警察権力も及ばない無法地帯のようなものでした。
4月の観音寺の縁日には寺の背後に多くの賭場が立っていたので、ここを縄張りとする親分には莫大な収入がありました。
神戸の長吉がこの当たりを縄張りとしていましたが、長吉が他国へ出ている間に、桑名の穴太徳(あのうとく)の手に落ちます。
この神戸の長吉と桑名の穴太徳の争いが始まりでした。
次郎長一家が世話をした長吉の縄張りが奪われたとあって、次郎長の下で過ごした後、次郎長と盃を交わすまでの仲になった吉良(現:愛知県西尾市吉良町)の仁吉も動きます。
4月8日、穴太徳の手下や、岡っ引きらの仲介を断って清水次郎長一家の22人・吉良の仁吉が神戸の長吉に加勢して、荒神山の喧嘩に乗り込みます。
長吉方は現、加佐登神社付近に人を築き、穴太徳方は荒神山西の高塚山に拠って争いが始まりました。
長吉方は神戸の長吉・吉良の仁吉・清水次郎長一家22名で挑んだのに対し、穴太徳方は穴太徳一家に加えて次郎長と敵対していた黒駒の勝蔵一家が付き、130余名で挑みます。
数で優っていた穴太徳方でしたが、寄せ集めの集団であったため、用心棒の亀井門之助・太田佐平治が討ち取られると総崩れになってしまい、10余名の負傷者を出して敗走します。
少数ながらも勝利を収めた長吉方でしたが、この争いで加勢していた次郎長一家の法印の大五郎、そして吉良の仁吉は鉄砲で撃たれた上に斬りつけられて死亡しました。
大切な子分が殺されたことで次郎長は大激怒し、さらに480名を動員、長槍170本・鉄砲40丁・米90俵を船に積んで、穴太徳の元へ向かいます。
これに穴太徳方は恐れおののき、ひたすら陳謝をして和議を申し入れました。
次郎長はこれを許し、和議を受け入れます。
この一件以来、「清水次郎長」の名は全国へ知られ、貫禄を増していきます。
また、この後吉良の仁吉の1周忌に、次郎長は遺族とともに墓を建立します。
【転換期】
慶応4年(1868年)3月、駿府藩が成立。それに伴い駿府町奉行が廃止され、東征大総督府が駿府町差配役に任命した伏谷如水から、街道警護役(警察署長)に任命されます。
次郎長はこの役を、自分のようなものがお役人になるなんてとんでもないと断ります。
しかし、伏谷如水は退かず、この役を引き受ければこれまでの罪を免じると交渉します。
次郎長も退かず、それで引き受けたら罪逃れのために役人になったと一生笑われるとやはり断ります。
ちょうど、徳川幕府の時代から明治時代に変わるタイミングだった時代の日本でしたから如水は、今は徳川も薩長もなく天子様を皆でお迎えして新しい時代を築かなければならない時代だ。己を捨てて天子様のために尽くそうと思わないのか。清水の湊を守り、駿府・東海道の治安を守ることは天子様のお役に経つことだ。と言葉をかけます。
その如水の熱意に打たれ、生まれ変わる転機となったその言葉を深く魂に刻みます。
そして、街道警護役を引き受け、その後同年7月まで駿府東海道の治安に努めます。
これまで侠客として名を馳せ、その人生を歩んできた次郎長はここから180度生き方を変えていきます。
同年、黒駒の勝蔵は偽名を使い、官軍の先鋒として駿府に入ろうとします。
次郎長はこれをすぐに見抜き、勝蔵の江尻通過を防ぎました。
同年7月、浜松藩へと戻る伏谷如水を子分たちとともに送っていきます。
また、江戸からやってきた大量難民の徳川家の旧幕臣とその家族が清水港に上陸します。
現代のように集合住宅や宿泊施設が整備されていない時代でしたから、駿府の街は大量の難民に混乱します。
次郎長は炊き出しなどで彼らを救護し、すぐに方々に手を回して彼らの住まいを確保し、混乱を治めました。
同年8月、徳川家達公が駿府城に入り、勝海舟・山岡鉄舟は駿府藩幹事役となります。また、この時、江戸は東京となり、徳川慶喜公は駿府宝台院に謹慎となります。
この8月の半ば頃、旧幕府軍海軍副総裁の榎本武揚は、7隻の軍艦を要する艦隊を率いて、江戸から駿府行きを拒んだ武士たちとともに、品川沖から北海道の方へ脱走します。
しかしその途中、大嵐に見舞われて時化の海を漂うこととなります。
その中の1隻、咸臨丸は帆柱が折れて修復のために清水港へ入港します。
明治元年9月18日、清水の街に突然大砲の音が響き渡ります。
家を飛び出した次郎長は酷い光景を目にしました。
旧幕府軍として逃亡した咸臨丸を発見した官軍が、白旗を掲げていても容赦なく船内に次々に斬りかかり、皆殺されて遺体が海に放り込まれている光景でした。
また、そのあとすぐに、”賊軍である咸臨丸の乗組員の遺体には触れるな、埋葬するな、この掟を破ったものは反逆者として厳罰に処する”というような内容の高札が立ちました。
この御触れと厳しい見張りによって、海に漂う遺体を誰も埋葬できず、酷い死臭と景観になっていました。
これでは漁も出来たものではないと、漁師たちは次郎長一家に何とかしたいことを相談します。
最初は、生き方を変えて頑張っている親分にそんなご法度なことはさせられないと子分たちが止めますが、次郎長は動きます。
「たとえ知らない人間であっても、そこで仏になってしまえば賊軍も官軍も関係ない、その土地の人間が供養するのが人の情けというものだ。」と、結局お上に逆らう形で、夜中の見張りのいない時に子分を動かして遺体を回収し、供養します。
しかし9月の末頃、すぐに駿府藩役所より出頭命令が来ます。
こんなことが出来るのは次郎長を置いて他にいないと噂がたっており、発覚してしまいました。
呼び出した松岡万に対し、次郎長は嘘をついたり逃げたりもせず、自分がやったことを認めた上で、人の道として当たり前のことをしただけだと主張します。
しっかりと次郎長の主張を聞き、またかつては幕臣でもあった松岡は心を打たれ、お咎め無しとしました。
明治二年(1869年)、50歳の時、三河へ出かけている間に二代目お蝶が久能新番組の小暮半次郎に斬り殺されます。
子分の田中啓次郎がすぐに追いかけ打ち取ります。
また、この頃、静岡藩大参事の人に就いていた旧幕臣の山岡鉄舟は、咸臨丸事件での次郎長の働きや言葉を聞き、深く感謝し、親交を持つようになります。
鉄舟は次郎長がつくったお墓に、「壮士の墓」という銘を与えます。
この年、旧幕臣の杉亨二(後の初代統計局長官)は次郎長に会い、三保の塩田、有度山の開墾など移住士族が生きていく道を探ります。
同年12月、新門辰五郎は次郎長に会い、徳川慶喜公の警備役を依頼します。
また、この年、三州西尾の藩士の娘、三代目お蝶を娶ります。
【社会事業家としての時期】 <富士市大渕の開墾>
明治七年(1874年)、55歳の時、当時の静岡県知事・大迫 貞清のすすめもあり、助成金を二千円もらい、向島の囚人たちを集め、富士裾野(大渕)の開墾をはじめます。
この土地は水も出ないような荒れ地で、非常に厳しい開墾でしたが、明治十四年(1878年、次郎長62歳の時)山岡鉄舟が引きあわせ、次郎長の養子になった天田五郎がその采配を振るい、76町歩を開梱することに成功します。
この開梱された土地は「次郎長」と名付けられ、現在も残っています。
養子となった天田五郎は、「東海道遊侠伝・一名次郎長物語」を執筆し、明治十七年(1884年)に東京与論社より出版します。
また、この年、半田港から清水港へ進出した仲埜・盛田合弁の酒の量販店「中泉現金店」の開業にも次郎長は力を貸しています。
<清水港の発展>
明治八年(1875年)、元々清水の港は巴川の河口港でした。
江戸から明治に変わり、新しい時代の幕開けをいち早く察知した次郎長は、清水港の発展には茶の販路の拡大が必要だと考えます。
そのためには、より大きな蒸気船が入港でき、大きく貿易できる必要があると廻船問屋の経営者たちを口説いて周りました。
自身も、明治十三年(1880年、61歳の時)には「静隆社」の設立に携わり、蒸気船を3隻かかえて何度も横浜と清水を行き来します。
さらに、輸出茶の商人・静岡の茶商・清水港の廻船問屋を結びつけて清水港と横浜港の定期航路を誕生させます。
こういった次郎長の動きがあって、清水港は外に開かれた港となり、静岡のお茶はアメリカへも輸出されて、日本一のお茶の輸出港となります。
この静隆社設立の翌年(1881年)、大政こと山本政五郎が死去します。
<英語塾の開講>
明治九年(1876年、57歳)、旧幕臣の新井 幹の開いた私塾、「明徳館」の一室を使って英語塾を開設します。
茶の海外輸出のこともあり、肌で英語の必要性を感じた次郎長は、これからの若者は英語を知らなきゃダメだ!
と、近所の若者を集めて、講師に静岡学問所の若手講師を招いて英語塾をはじめます。
英語塾の生徒の1人、三保の川口源吉は、ある日横浜から貨物船に紛れ込んでハワイへ密航します。
そしてハワイで大成功をおさめ、地元では「ハワイさん」の愛称で親しまれています。
英語塾は、国際化にしっかりと一役買っていました。
この英語塾の様子を再現した展示が、次郎長が晩年経営した船宿を再現した施設「末廣」にあります。
<船宿「末廣」の開業>
末廣開業の前、65歳の年には博徒一斉刈り込みにより、静岡井之宮監獄に収監されてしまい、懲役七年・罰金四百円の刑をくらうのですが、関口隆吉などの尽力により、翌年釈放されます。
明治十九年(1886年)、この時68歳ですがまだ頑張りました。
大きくなった清水港には、軍艦も出入りし、将兵たちがたくさん出入りしました。
そこで、船宿「末廣」を開業したのです。
清水港に出入りした将兵たちの中には、後に「軍神」と言われ日露戦争で活躍をした広瀬武夫もおりました。
広瀬が清水港に入った時、50名ほどの海軍軍人が次郎長を訪ねます。
次郎長は彼らを見渡し、「この中に男らしい男は一匹もいねぇな」と言ったため、広瀬は「おうおう、そう言うなら一つ手並みを見せてやるからびっくりするな」と言って自分のみぞおちを50〜60発ほど続けざまに殴り、これには次郎長も「なるほど、お前は男らしい」と感心し、お互いに胸襟を開いて談話をしたというエピソードもあります。
この末廣には、徳川慶喜公も次郎長を訪ねて度々訪れています。
<済衆医院の開設>
明治十九年(1886年)、東京大学医学部特別課を卒業した植木重敏と、次郎長は横浜から土佐に向かう船上で知り合い、植木と同じ土佐須崎鍛冶町出身の渡辺良三とともに清水へ招き、済衆医院を静岡県有度郡清水町に開設します。
【最期の時期】
明治二十年(1887年・69歳)、興津の清見寺に咸臨丸殉難者記念碑の除幕式を行います。
碑文「食人之食者死人之事」は、榎本武揚によるものです。
明治二十一年(1888年・70歳)、山岡鉄舟死去。次郎長も葬儀に参列します。
明治二十三年(1889年・71歳)、海軍少尉小笠原長生、軍艦天城に乗り込んで清水港へ。末廣の次郎長を訪ねます。
明治二十五年(1892年・73歳)、山田長政顕彰碑の建立のため、駿府城内で大相撲の興業を催します。
明治になってから静岡人は郷土の英雄・山田長政を銅像にしようとなかなか実現にいたりませんでした。
次郎長も山田長政を尊敬していたとのことで、自らこうして動いて建立を目指したのでした。
大相撲の他にも、当目の岩吉を連れて上京し、当時の外務大臣になっていた榎本武揚に会い、銅像建立の趣旨を説明して金一封の寄贈をしてもらっています。
明治二十六年(1893年・74歳)、三代目お蝶に看取られながら、風邪をこじらせた次郎長はその生涯を終えます。
侠客としては非常に長生きした人生でした。
葬儀には三千人を超える参列者が集い、梅蔭寺にて葬儀を行い、埋葬されました。
次郎長は初代、二代目、三代目お蝶・大政・小政・森の石松などとともに今も梅蔭寺に眠っています。
西暦 | 和暦 | 年齢 | 主な出来事 |
---|---|---|---|
1820年 | 文政三年 | 0歳 | 1月1日 駿河国有度郡清水町美濃輪に生まれ、船頭三右衛門の次男として長五郎と名づけられる。 その後母方の叔父次郎八の養子に引きとられる。 |
1829年 | 文政十二年 | 8歳 | その粗暴な性格のため、由比倉沢の伯父、兵吉のもとに預けられる。 |
1834年 | 天保五年 | 15歳 | 養家に戻るが百両持ち逃げし、それを資金に米相場で巨利を博し、清水に戻り家人を驚かす。 |
1839年 | 天保十年 | 20歳 | 旅の僧に、余生が25歳と予言され、任侠の道を志す。 |
1842年 | 天保十三年 | 23歳 | 江尻にて芝居見物の跡、酔って帰路につく折に闇討ちにあい、瀕死の重傷を追う。これを機に生涯禁酒を誓う。 博打のもつれから人を斬り、家業であった甲田屋を姉夫婦に譲り、無宿者となり清水を出る。 三河の地にて、吉良の武一より剣術を学ぶ。 |
1845年 | 弘化二年 | 26歳 | 清水に戻った次郎長は、甲州紬の文吉と駿州和田島の太左衛門との喧嘩を庵原川にて仲裁。その挟名を高める。 |
1847年 | 嘉永二年 | 28歳 | 江尻大熊の妹(初代お蝶)をめとり、清水仲町の妙慶寺近くに世帯を持つ。 |
1858年 | 安政五年 | 39歳 | 甲州の祐天と江尻大熊の間に争いが起こり、次郎長と大熊は祐天の親分である甲府の隠居を斬る。 このため役人に追われた次郎長はお蝶・子分と共に瀬戸の岡一の家に身を寄せる。 お蝶が病に倒れ、移った先の名古屋の長兵衛の家で帰らぬ人となる。 |
1859年 | 安政六年 | 40歳 | かつて次郎長が親身になって世話をした八尾ケ獄宗七(久六)の密告により捕吏が長兵衛宅に踏み込む。 次郎長は逃げきるも、長兵衛は捕われ牢死する。 大政・石松等を連れ金毘羅参拝後に久六を斬り、長兵衛の怨を晴らす。 |
1860年 | 万延一年 | 41歳 | 久六制裁の願果たしに、森の石松を金毘羅神社へ代参に向ける。 参拝後、見請山の鎌太郎のもとを訪れた石松は、鎌太郎からお蝶葬儀の際に届けられなかった香典二十五両を託された。 帰路遠州笠井の寺島の常吉を訪れた際、ふところの二十五両を狙われ、都田の吉兵衛・梅吉兄弟に惨殺される。 |
1861年 | 文久一年 | 42歳 | 梅陰禅寺住職の振舞ったふぐにあたり、角太郎・喜三郎が死亡。 密かに石松の敵討ちを計画していた次郎長は、これを逆に利用して一家全員がふぐにあたると噂をたてる。 これを耳にした都田吉兵衛はチャンスとばかり徒9人を引き連れ清水に押し寄せる。 いち早く吉兵衛らの清水入りを知った次郎長は大政・小政・相撲常・清吉らと共に酒亭駕篭屋にて彼らを奇襲。 石松の仇を晴らす。 |
1862年 | 文久二年 | 43歳 | 勢力を伸ばしていた甲州黒駒の勝蔵は、興津の盛之助に乱暴を働くなど悪事の限りを尽くし捕吏の追うところとなる。 遠州に逃れた勝蔵を捕らえるべく、中泉番所は大和田の友蔵に依頼。 加勢した次郎長は勝蔵を甲州に追いやる。 |
1864年 | 元治一年 | 45歳 | 清水襲撃の資金集めを強要された勝沼の三蔵は次郎長に救援を求める |
1866年 | 慶応二年 | 47歳 | 桑名の穴太徳に縄張りを奪われた伊勢の神戸の長吉は、吉良の仁吉に救援を求めていたが、清水(次郎長)一家22人も仁吉に加勢する。 荒神山にて穴太徳・黒駒の徒130人余を相手に闘い穴太徳の弟分角井門之助を倒すも、仁吉・法印大五郎は命を落とす。 次郎長は憤慨しさらに480名の動員、長槍170本、鉄砲40丁、米90俵を船に積み、穴太徳に再び挑む。 穴太徳らは恐れおののき、ひたすら陳謝のみで和議を受け入れた。 この一件以来「清水次郎長」の貫禄は増し、その名は全国に知られる事となる。 |
1868年 | 明治一年 | 49歳 | 駿府町奉行が廃止され、伏谷如水駿府町差配役となり駿府の治安にあたる。 これに伴い次郎長を街道警固に命じ、それまでの罪科を免じ帯刀の許可を受ける。 幕府の軍艦咸臨丸、清水港内で官軍に攻撃され乗組員は全員死亡。 湾内に浮かぶ幕軍の屍を次郎長が収容し向島に葬る。 |
1869年 | 明治二年 | 50歳 | 次郎長が三河に行って留守の間、久能新番組の木暮半次郎に二代目お蝶が斬られ死す。 啓次郎らがこれらを追い久能寺前で討つ。 この頃、山岡鉄舟は咸臨丸事件の次郎長の話に感銘し「壮士の墓」の墓碑銘を揮毫して与える。 三州西尾の藩士の娘をめとる(三代目お蝶) |
1874年 | 明治七年 | 55歳 | 囚徒を使役し富士裾野の開墾を始める。 |
1875年 | 明治八年 | 56歳 | 向島に波止場の建設を始める。 また回漕問屋に蒸気船の運行を説く。 |
1878年 | 明治十一年 | 59歳 | 山岡鉄舟、天田五郎を次郎長に引き合わせ、次郎長の家に逗留し「東海道遊侠伝」の執筆を始める。 |
1881年 | 明治十四年 | 62歳 | 天田五郎、次郎長の養子となる。 |
1884年 | 明治十七年 | 65歳 | 「東海道遊侠伝・一名次郎長物語」東京与論社より出版。 博徒のいっせい刈込みにより、次郎長は静岡井之宮監獄に収監されるも翌年、特赦放免となる。 |
1886年 | 明治十九年 | 68歳 | 向島波止場周辺に旅宿「末廣」を開業。記念に鉄舟揮毫の扇子を千本配る。 |
1887年 | 明治二十年 | 69歳 | 興津清見寺に咸臨丸殉難者記念碑の除幕式を行なう。 碑文「食人之食者死人之事」は榎本武楊によるもの。 |
1893年 | 明治二十六年 | 74歳 | 次郎長没。梅蔭禅寺にて葬る。 |